「君が代」解義 |
「君が代は千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて苔のむすまで」の原典は、醍醐天皇の延喜五年(905年)紀貫之(きのつらゆき)等に撰上された勅撰和歌集の初めである「古今和歌集」巻七の中の「賀の歌」の巻頭の歌(よみ人知らず)である。
両者の違いは賀の歌が「わが君は……」と始まるのに対し、君が代は「君が代は……」と始まる事で、その他は相違ない。
先ずは言霊学に基づいて歌の意味を解説しよう。
―「君が代は」、
または「わが君は」の君とは何か、伊耶那岐(キ)・伊耶那美(ミ)の岐(キ)美(ミ)である。言霊イとヰである。岐美二神は人間一切の機能を統轄し、人類全体の文明を創造する。その全能の原理を継承・自覚し、それを政治に活用する責任者が天津日嗣天皇(スメラミコト)である。
―「千代に八千代に」、
数字にこだわれば千年も幾千年も続く、の意永遠という事。言霊布斗麻邇に基づく人類文明創造の経綸の世は永遠に続くという事。
―「さざれ石の」、
さざれ石とは細かい石のこと。この指すところは世界全国各地に於いて言挙げ、即ち主張される意見・論点・アイディア・学問等のすべてのこと。
創造の生命(言霊イ)が静まっている(言霊シ)。それぞれは小さい主張(さざれ石)からも知れないが、その総量が人類文明創造という大目的の下に統一されるならば、すべての生命は生かされる。
天津日嗣天皇(スメラミコト)のスメラとは統べる、統一するの意であり、何を統一するかと言えば、全世界から主張される言葉、それには個々に生命が籠っている御言(ミコト)である。
―「いわおとなりて」、
「いわお」は「五十葉(いわほ)」で五十音言霊の意であり、「なりて」とは五十音言霊の原理即ち八咫の鏡に懸けられて文明創造上の時処位を得ることを指している。
―「苔のむすまで」。
苔とは子気(こけ)即ち子音である現象の気、言い換えると「世界文明創造という現象が産出(むす)されて行く事となるまで」の意である。
総括すると
「言霊イとヰの世界文明創造原理の自覚者である天津日嗣スメラミコトの御代に於ては千代に八千代に次の如き政治が行われるであろう。即ち世界各地に於いて言挙げされる種々の文化が言霊五十音の鏡に懸けられて、各々その処を得しめられ、それぞれに世界人類の文明を創っていくための役目を与えられ、その時処位に応じた文化の花を咲かせて行く。天津日嗣の経綸とはかかるものなのである。」
「君が代」の君は天皇のことを言っているのだろうと解釈されますが、本当は伊耶那岐のキ、伊耶那美のミのことです。。「あなたとわたしは」ということです。検束にうつして世界の政治の頂点に立つ方、それをキミと申します。このキミがどういうことをするのでキミなのか、それを言い表したのが「君が代」。
天皇が天皇だった時代に天皇を語れば不敬罪に問われました。古事記、日本書紀も天皇が天皇だった時代には許されないことでした。でも戦争に負けて天皇が古事記、日本書紀は天皇とは関係ないと宣言してしまってからは一般人が古事記、日本書紀を説けるようになりました。
国歌を歌わなかったからといって学校の先生を訓戒にしたり何かしたりするのは大笑いです。なぜかっていえば、歌っていうものは無理に唄わせるものじゃあないですから。そんなの強要したって何の意味もありません。「歌」っていうのは、心から唄うんです。真実を唄うから感動がある。歌うということに対して法律を設けたら、とんでもないことです。
だけど、それがわからないんですね。おどかせば唄うと思ってる。それは唄う人もいましょうけれども、むしろ陰にこもっちゃって、いろんなことを考えだしちゃう人もなきにしもあらず。そういうものじゃなくて、「人間とは」、「人間の社会とは」、ということを平静に述べた歌なんです。天皇の「大君」ではないのです。